日々を過ごす日常で、ストレス、不満で幸福を感じられないことが多く、自分にとっての幸福とはなんなのかと考えることがあります。このイライラの募る毎日から抜けだす為に知ればすぐに幸福な気持ちになれる言葉とともに自らの意識改革について綴っていきます。
気づかなければ変えられない、気づいたら変えるしかない
ジェリル・サンドバーグ(元フェイスブック 最高執行責任者)
この言葉の通り現実世界に体験しているストレスと不満に埋もれ、幸福になれる言葉を忘れ去っていたり、新たな言葉を知るきっかけがなければならない、つまり気づかなければ現状を変えることはできないと思います。
「衣食足りて礼節を知る」
この言葉の意味は衣服、食糧が十分あれば余裕ができて、礼儀や節度をわきまえるようになると言うもので、礼節の礼は礼儀、節は節度(度を越さない、適当なほどあい)のことですが、今の時代では衣服、食糧に困窮することも少なく、時代錯誤の様に思えてしまいがちなのですが、今だからこそこの原点的な言葉思想の重要性に気づくべきだと思います
あらゆる物が手に入りやすい世の中となっていますが、自身の掲げ、描く理想と現実のギャップから生まれる不満の苦しみは物では埋め合わせることはできないように思います。
常に新しい事、物、情報がアップデートされ、先を追い求める時代に衣食足りていると再認識して余裕を持つことは難しいかもしれませんが、足りている物に目を向ける機会が少なくなりつつあるのではないだろうか
足るを知る者は富む
老子
有名な老子の言葉で、きりのない人間の欲望に埋もれず、分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ。
何かを理解しようと思ったら、遠くを探すな
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ドイツの文豪ゲーテの言葉ですが、何かを理解しようとする時は、遠くを探すより、近くを探したほうが良い。なぜなら真理はたいてい、自分の近く、つまり身の回りにあるからだ
物事のうち には「 我々次第 で ある もの」と「 我々次第 で ない もの」との 両者 が ある。 判断、 意欲、 欲望 と 忌避 など、およそ 我々の〔 こころ の〕 働き による もの は「 我々 次第」 だ が、 自分 の 身体 や 財産、 他人 からの 評判、 地位 官職 など、 およそ 我々 の 働き に よら ない もの は「 我々 次第」 では ない。「 我々 次第 で ある もの」 は 本来、 自由 で、 妨げ られ ない し、 他人 から 邪魔 さ れ ない。 だが、「 我々 次第 で ない もの」 は 脆弱で、 隷属的で、 妨げ られてしまうし、 自分 の もの では ない。『 堤 要』
荻野 弘之; かおり&ゆかり. 奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業――この生きづらい世の中で「よく生きる」ために (p.36). ダイヤモンド社. Kindle 版.
不満を生む理想と現実のギャップも、この考え方に当てはめると、理想は我々次第であるものなのか!?我々次第でないと分かれば、現実の我々次第である目の前の事に集中することができる。
現代社会においても既知的とした自分に満たされている部分や、やれるべき事に気づきを得る事で心に余裕を持つことができ、礼節を知る。
前述にもでたゲーテはこの様にも言いました
節度を持った人だけが豊かさを感じる
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ある程度をコントロールできる余裕を持つことが重要で、結果的に豊になれる
そして幸福論の著者アランは礼儀についての考えも以下のように示している
礼儀作法とは、 感情にじかに対抗する一種の鍛錬にすぎないのである。 礼儀正しい ということはつまり、 あらゆるしぐさ、 あらゆることば を通じて、 次のことを伝えているのである。 「いらいら しないようにしよう。 人生のこの瞬間を台なしにしないようにしよう」
アラン. アランの幸福論 Propos sur le bonheur (p.158). 株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle 版.
アランは礼儀作法と幸福の結びつきを示唆した人です。礼儀正しさの中にある柔軟さや自然さやゆとり、調和的で無駄のない有機的な動きは、自身に満ちた生きた生命のイメージです
そして礼儀というものは、乱暴な情念(心の内にある、理性的には片付けられないもの)を鎮めるための体操です。せっかく与えられたこの短い人生という時を、くだらない情念のせいで無駄にしないための技術であるとしています
偉人達も示す礼節の重要性に気づける一方で、礼節をわきまえる前にまずは自身が足りている部分に気づかなければなりません、冒頭の言葉の通り気づいたら変えるしかありません、この記事が幸福の近道になりうる気づきのきっかけになれば幸いです。
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